07 いまを生きる

自分が大切にしたい方向へ、 一歩を選ぶ

感情を消せないままでも、大切にしたい方向へ行動を選べるのか。心理的柔軟性、価値観と目標の違い、今日できる具体的な一歩から、その手がかりをたどる。序章から続いたInside Coreの旅、最終章です。

序章から第88章まで、長い旅をたどってきました。宇宙の始まりから、生命の進化、人類の歴史、身体と心の仕組み、群れと社会、問いと物語、そして現代の暮らしの中にある反応まで。人間には、ちゃんと理由があることを、さまざまな角度から見てきました。地球という星に生命が生まれ、長い年月をかけて進化を重ね、やがて言葉を持ち、社会を築き、物語を紡ぐようになった人類の歴史の先に、今この文章を読んでいるあなたがいます。長い年月と数えきれない偶然の積み重ねの果てに、今このページを読んでいるあなたという存在があります。

第88章では、理由を知ることが、運命でも、単一の原因でも、免責でもないことを整理しました。理由が分かっても、この先どう生きるかが自動的に決まるわけではありません。理由を知った先で、私たちは何を手がかりに、次の一歩を選べばよいのでしょうか。

これが、Inside Coreの最後の問いです。序章から始まったこの旅は、この一つの問いに向かって、ずっと歩み続けてきたのかもしれません。理由を知ることは、ゴールではなく、次の一歩を選ぶための出発点です。この最終章では、その手がかりをたどっていきます。長い旅の締めくくりとして、少し丁寧に見ていきましょう。

感情を消せなくても、行動は選べる

不安が消えないまま、それでも一歩を踏み出せるのだろうか。そんな疑問を持ったことはないでしょうか。この本の中で、私たちはさまざまな不安や恐れ、緊張や落ち込みの理由をたどってきました。それらの多くは、簡単に消し去れるものではありませんでした。だとすれば、私たちはこれらの感情が消えるまで、ずっと待ち続けなければならないのでしょうか。

心理学者スティーブン・ヘイズらが体系化してきたアクセプタンス&コミットメント・セラピーという心理療法の枠組みでは、不快な感情や考えを無理に消そうとするのではなく、それらを抱えたまま、大切にしたい方向へ行動を選んでいくことに焦点を当てています。従来の多くの心理療法が、不安や落ち込みといった感情そのものを減らすことを目指してきたのに対し、この枠組みは少し違う道を示しています。感情をコントロールしようと戦い続けること自体が、かえって消耗を招くことがあるからです。不安を感じないようにしようと努力すればするほど、かえって不安そのものに意識が向いてしまい、疲れ果ててしまうという経験をしたことがある人も多いかもしれません。

この枠組みの中心にあるのが「心理的柔軟性」という考え方です。これは、今この瞬間の思考や感情をそのまま受け止めながら、自分が大切にしたい方向に沿った行動を選べる力を指しています。感情を消すことと、感情に振り回されずに行動することとは、別の話なのです。不安を感じたまま人前で話すことも、緊張を抱えたまま新しい挑戦をすることも、可能です。感情がなくなるのを待つ必要はありません。

これまでの章で見てきたように、危険への反応や、評価されることへの恐れ、先延ばしにしてしまう感情の仕組みは、どれも簡単には消せないものでした。不安や恐れをゼロにしてから行動しようとすると、いつまで経っても動き出せないことがあります。第87章で見た、感情が消えるのを待ってしまう仕組みも、まさにこの罠でした。この枠組みが示しているのは、感情が消えるのを待つのではなく、感情をそっと横に置いたまま、行動のほうを先に選ぶという発想です。

感情を横に置く、という表現は、感情を無視したり、押し殺したりすることとは違います。感情の存在を認めながら、その感情に行動の決定権を渡しきらない、という姿勢に近いものです。緊張している自分を否定するのではなく、「緊張している。それでも話してみよう」という形で、感情と行動を並べて置いておく。この心の持ち方が、心理的柔軟性の核にあります。

感情を無理に変えようとする代わりに、感情との距離の取り方を変える。この視点の転換は、これまでの章で見てきた、身体・経験・社会・物語・環境という複数の層から生まれる反応を、すべて消し去ろうとするのではなく、抱えたまま生きていくための、一つの実践的な方法でもあります。

価値観と目標の違い

大切にしたい方向へ進むと言っても、何を目指せばよいのか分からない、と感じることもあるかもしれません。ここで役に立つのが、価値観と目標という、二つの異なる概念の区別です。

目標とは、いつか到達し、達成できるものです。「資格を取る」「体重を落とす」「本を出版する」といったものが目標にあたります。目標は達成すればそこで終わり、次の目標が必要になります。一方、価値観とは、到達点ではなく、進み続ける方向そのものです。「誠実でありたい」「人を大切にしたい」「学び続けたい」といった価値観は、達成して終わるものではなく、日々の行動の中で、繰り返し選び直していくものです。仕事、家族、健康、学び、趣味といった、人生のさまざまな領域ごとに、それぞれ異なる価値観を持っていることも珍しくありません。ある人にとって、仕事における価値観は「専門性を高め続けること」かもしれませんし、家族における価値観は「そばにいる時間を大切にすること」かもしれません。一つの価値観がすべての領域に当てはまるとは限らず、領域ごとに異なる方向を持っていて構わないのです。

この区別を、コンパスと目的地の違いにたとえることもできます。目的地は、着けばそこで旅が終わります。コンパスは、どの方向へ進み続けるかを、常に示し続けてくれます。目標を追いかけることは大切ですが、目標だけを見ていると、目的地に着くまでは満たされず、着いたあとには次の目的地を探し続けることになりがちです。第83章で見た、選択肢が増えるほど決めにくくなるという話も、目指すべき方向がはっきりしていない状態で、次々と目的地の候補だけが増えていくことと関係しているのかもしれません。方向がはっきりしていれば、無数にある選択肢の中から、自分にとって意味のあるものを絞り込みやすくなります。

手のひらに乗る小さな光の点と、地平線に沿って続く細い金の光の筋を通じて、到達点としての目標と方向としての価値観の違いを象徴的に表現したイメージ

目標だけを追いかけていると、達成した瞬間の高揚が過ぎ去ったあと、次に何を目指せばよいのか分からなくなることがあります。第84章で見た、数字や達成が自分の価値そのものに見えてしまう仕組みも、目標だけに意識が向きすぎたときに起こりやすいことでした。目標を達成できたかどうかだけで自分を評価していると、達成できなかったときには自分の価値そのものが揺らいだように感じられ、達成できたときには次の目標がすぐに必要になります。価値観という方向を持っていると、一つの目標を達成したあとも、同じ方向へ向かう次の一歩を、自然に見つけやすくなります。目標が「山の頂上」だとすれば、価値観は「歩いている方向」に近いものです。頂上に着けば旅は終わりますが、方向は歩き続ける限り、常にそこにあります。

自分の価値観をはっきりと言葉にすることは、簡単ではありません。何を大切にしたいのかを見つめ直すには、時間をかけた振り返りが必要になることもあります。仕事のことを尋ねられたときと、家族との関係を考えるときと、休日の過ごし方を選ぶときとでは、大切にしたいものが違って見えることもあるかもしれません。それぞれの領域で、自分が本当に大切にしたい方向を探ることは、一度きりの作業ではなく、時間をかけて繰り返し確かめていく営みです。この記事では、その入口だけを示しますが、価値観を掘り下げて言葉にしていく本格的な作業は、Take a step講座の中で、じっくりと取り組めるようにしています。

今日できる具体的な一歩

価値観の方向が見えてきても、大きな決意だけでは、なかなか行動には結びつきません。「頑張ろう」という強い気持ちだけでは、日々の暮らしの忙しさの中で、いつの間にか後回しになってしまうことがあります。第86章で見た、休むことの難しさの背景にも、無為への嫌悪や忙しさへの評価といった、意志の力とは別の仕組みが働いていました。行動を続けるうえでも、同じように、意志の力だけに頼らない工夫が役に立ちます。ここで力を発揮するのが、ごく具体的な行動計画です。

心理学者ペーター・ゴルヴィツァーとパシュカル・シェランは2006年、目標を達成するための計画の立て方について、それまでに行われた94件の研究をまとめたメタ分析を発表しました。この研究で確認されたのは、「いつ」「どこで」「何をするか」を具体的に決めておく「実行意図」と呼ばれる計画を立てた人は、そうでない人に比べて、目標を達成しやすいという結果でした。単に「やろう」と思うだけの目標意図に比べて、状況と行動を具体的に結びつけた実行意図のほうが、実際の行動につながりやすいことが、幅広い分野の研究を通じて確認されています。

EVIDENCE

人物のすぐ先に灯る小さく淡い一つの光の足跡を通じて、大きな決意ではなく具体的で小さな一歩を象徴的に表現したイメージ

「健康に気をつけよう」という漠然とした決意よりも、「毎朝、コーヒーを淹れたあとに、5分だけ散歩する」という具体的な計画のほうが、実際の行動に結びつきやすいということです。大きな決意は、モチベーションが高いときには効果を発揮しますが、日々の暮らしの中では長続きしにくいものです。反対に、状況と行動を具体的に結びつけた小さな計画は、意志の力にあまり頼らずに、行動を積み重ねていく助けになります。第44章で見た、意志の力だけでは行動を説明しきれないという話も、この研究とつながっています。行動を続けるための工夫は、根性だけに頼るものではなく、仕組みとして設計できるものでもあるのです。

「いつ」「どこで」を決めておくことには、もう一つ利点があります。行動のきっかけとなる場面が訪れたとき、あらためて「今やるべきかどうか」を判断し直す必要がなくなる、という点です。判断そのものにもエネルギーが必要であることは、第83章で見た選択の負担の話とも重なります。あらかじめ決めておいた計画は、その都度の判断という負担を減らし、行動そのものをより自然に起こせるようにしてくれるのです。

今日できる一歩は、大げさなものである必要はありません。価値観の方向に、ほんの少しでも近づける行動を、具体的な状況と結びつけて一つだけ決めてみる。それだけで十分です。大きな変化は、たいてい、こうした小さな一歩の積み重ねの先に生まれます。

「人を大切にしたい」という価値観を持っているなら、「今日、家に帰ったら、最初に会った家族に、今日あった出来事を一つ尋ねてみる」という一歩でも構いません。「学び続けたい」という価値観を持っているなら、「明日の朝、通勤中の10分間だけ、興味のある本を開いてみる」という一歩でも構いません。「誠実でありたい」という価値観を持っているなら、「今日中に、後回しにしていた一件の連絡を、正直な気持ちで返す」という一歩でも構いません。壮大な計画よりも、今日、確実に実行できる小さな一歩のほうが、価値観に沿った暮らしを積み重ねていくうえでは、はるかに確かな力を持っています。

ここまでの旅を振り返って

序章から始まったこの旅は、宇宙の誕生から、生命の進化、人類の歴史、身体と心の仕組み、群れと社会の成り立ち、問いと物語、そして現代の暮らしの中にある反応までをたどってきました。地球という星に生命が芽生え、長い時間をかけて進化し、人類が言葉を持ち、群れをつくり、物語を紡いできた歴史の先に、今のあなたがいます。

危険を前にした心拍の高鳴りにも、周囲の目を気にする感覚にも、通知から離れられない指先にも、それぞれに理由がありました。その理由は、運命でも、単一の原因でも、免責でもありませんでした。理由を知ることは、自分や他者を、少しだけ責めすぎずに見つめるための入口でした。

この旅の途中、何度も「自分を責めすぎないために」という言葉に立ち返ってきました。反応には理由がある。その理由を知ることは、弱さの言い訳ではなく、次にどう向き合うかを選ぶための土台になる。この考え方は、Door01からDoor07まで、姿を変えながらも、一貫してこのシリーズの底に流れていました。宇宙の始まりから今日の暮らしまで、扱う対象は大きく変わっても、この一つの姿勢だけは、最初から最後まで変わりませんでした。

危険を察知する仕組みも、群れの中で評判を気にする心理も、物語にすがりたくなる気持ちも、通知から離れられない指先も、すべてに理由がありました。それらの理由を一つずつたどってきたことで、自分自身や身近な人々の反応を、以前より少しだけ、違った目で見られるようになったかもしれません。誰かにいら立ちを感じたとき、あるいは自分自身の反応に戸惑ったとき、この旅で見てきた仕組みの数々を思い出してみてください。そこには、責める前に理解するための手がかりが、きっと見つかるはずです。

そして今、その入口を通り抜けた先に立っています。感情を消すことはできなくても、大切にしたい方向へ、行動を選ぶことはできます。目標だけでなく、進み続ける方向としての価値観を持つこと。大きな決意ではなく、具体的な一歩を、今日という日に結びつけること。この二つが、理由を知った先で、次に何を手がかりにすればよいかという問いへの、一つの答えです。

自分の価値観を見つけ、具体的な行動へと落とし込んでいく本格的な作業は、この記事だけでは終わりません。Take a step講座では、価値観を掘り下げるワークから、日々の一歩を積み重ねていく実践まで、時間をかけて取り組めるように設計されています。この記事がその入口になれば、と思います。

人間には、ちゃんと理由があります。その理由を知ったあなたは、もう、ただ反応するだけの存在ではありません。自分が大切にしたい方向へ、今日、一歩を選ぶことができます。その一歩は小さくても構いません。歩き続けることそのものが、価値観に沿って生きるということだからです。

明日、あるいは今日この瞬間から、何か一つだけ、小さな一歩を選んでみてください。その一歩が、大きな変化の始まりになるかもしれませんし、ならないかもしれません。それでも、理由を知ったうえで選ぶその一歩は、理由を知らないまま流されていた昨日までの一歩とは、確かに違うものです。反応の理由を知り、価値観の方向を見定め、具体的な一歩を選ぶ。この三つがそろったとき、私たちは、ただ環境や感情に流されるだけの存在ではなく、自分の意思で方向を選び取る存在になれるのです。

ここまで、長い旅にお付き合いいただき、ありがとうございました。この旅の終わりは、あなた自身の旅の、新しい始まりでもあります。人間には、ちゃんと理由がある。この一言を胸に、今日という日を、あなたが大切にしたい方向へ、少しだけ歩んでみてください。

参考文献

  1. Hayes SC, Pistorello J, Levin M. Acceptance and Commitment Therapy as a unified model of behavior change.
    The Counseling Psychologist. 2012;40(7):976–1002.
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  2. Gollwitzer PM, Sheeran P. Implementation intentions and goal achievement: A meta-analysis of effects and processes.
    Advances in Experimental Social Psychology. 2006;38:69–119.
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