03 からだと心
ストレスは、 何のためにあるのか
ストレス反応は、ただ身体を苦しめるためのものではありません。生命は環境の変化に合わせて全身の状態を組み替え、揺らぎの中で安定を保とうとしています。その働きがなぜ負担へ変わるのか、身体が今も何を守ろうとしているのかを見ていきます。
「ストレスがたまっている」
私たちは、疲れが抜けないときや、気持ちに余裕がなくなったとき、よくそんな言葉を使います。
仕事を終えても頭の中では考え続けている。人と別れたあとも、交わした言葉が何度もよみがえる。眠ろうとしているのに、明日の予定や、まだ起きていないことへの心配が消えてくれない。
そうした状態が続けば、ストレスは自分を苦しめるもの、できるだけなくしたほうがよいものに見えてきます。実際、強い負荷が長く続けば、心や身体のさまざまな働きに影響が及ぶことがあります。そのつらさを、単なる気の持ちようとして片づけることはできません。
ただ、ここで一つの疑問が生まれます。
それほど大きな負担になり得る反応を、なぜ私たちの身体は起こすのでしょうか。
身体は、変化の中で安定を保っている
生命が生きてきた環境は、いつも穏やかだったわけではありません。
気温が変わり、食べ物が不足し、傷を負うこともあれば、突然の危険に出会うこともあります。環境が変わったとき、身体が普段とまったく同じ状態を保とうとするだけでは、その変化を乗り越えられない場合があります。
すぐに動かなければならないときには、筋肉へ使えるエネルギーを届ける。傷や感染の可能性があるときには、身体を守る働きを調整する。食べ物が得られないときには、限られた資源の使い方を変える。
身体は、その瞬間に起きていることだけへ反応しているわけではありません。
この先に何が起こるのかを見積もりながら、まもなく必要になるかもしれない働きを先回りして整えています。
危険が近づいてから初めてエネルギーを集めるのではなく、その兆しを捉えた段階で動ける状態をつくる。傷ついたあとだけではなく、傷や感染の可能性に備えて、身体を守る働きの配分を変えておく。
身体は、置かれた状況と予測される変化に合わせて、内部の状態を組み替えます。
変化を避けることによってではなく、自らを変化させることによって、生命全体として生きられる状態を保とうとする。この働きは、研究では「アロスタシス」と呼ばれています。
私たちがストレス反応と呼んでいるものも、この調整の一部です。
普段は一つの言葉で「ストレス」とまとめていますが、身体へ負荷をもたらす出来事と、その出来事を受けて身体に起きる変化は、本来同じものではありません。
騒音や寒さ、病気、対人関係の緊張、先の見えない生活上の問題など、対応を必要とする出来事は「ストレッサー」と呼ばれます。それを受けて心拍や呼吸が変わり、注意が向け直され、エネルギーの使い方が切り替わる。この一連の調整が、私たちの呼ぶストレス反応です。
身体は、理由もなく私たちを苦しめているのではありません。
いま起きている変化と、この先に起こるかもしれないことに合わせて、生きられる状態をつくろうとしています。
全身が同じ出来事へ応じていく
草むらの向こうで、突然何かが動いたとします。
風で枝が揺れただけなのか、近くに危険なものがいるのかは、まだ分かりません。それでも、正体が完全に分かるまで何もしないという選択は、生命にとって安全とは限りませんでした。
身体は、考えがまとまるのを待たずに準備を始めます。
心臓の拍動を変え、呼吸を調整し、すぐに使えるエネルギーを確保する。注意を目の前の変化へ集め、差し迫って必要ではない働きへの資源配分を一時的に変える。その一連の変化によって、身体は次の瞬間に必要になるかもしれない行動へ備えます。
この調整は、一つの場所だけで起きているわけではありません。
脳が状況を受け取り、神経を通して身体へ信号を伝える一方で、ホルモンを介した少し緩やかな変化も始まります。自律神経、内分泌、代謝、免疫などの働きは、別々に動いているのではなく、一つの状況へ応じるために影響し合っています。
EVIDENCE
その経路の一つが、視床下部、下垂体、副腎をつなぐHPA軸です。
視床下部から始まった信号は、下垂体を経て副腎へ届き、コルチゾールなどの分泌につながります。
ここで大切なのは、器官の名前を覚えることではありません。
一つの変化へ応じるために、神経やホルモンだけではなく、代謝や免疫までが、それぞれ異なる時間の幅で協力しているということです。
コルチゾールも、身体を傷つけるためだけに存在する物質ではありません。
必要なエネルギーを確保し、代謝や免疫、炎症に関わる働きを調整しながら、変化へ対応できる状態を支えています。アドレナリンをはじめとする他の物質も、それぞれの役割を担いながら、全身の状態を組み替えていきます。
身体の中に、一人の司令官がいて、すべてを命令しているわけではありません。
いくつもの仕組みが互いの変化を受け取りながら、一つの生命として、その場に合う状態を探し続けています。

反応は、回復まで続いている
身体が変化へ応じるためには、エネルギーが必要です。
目の前の課題へ資源を振り向けているあいだ、長い時間をかけて進める働きや、今すぐには必要のない働きへの配分は変わります。その状態が続けば、身体には少しずつ負担が積み重なります。
だからこそ、この仕組みは身体を動員するところだけでは終わりません。
状況が変われば、速くなった鼓動を落ち着かせ、呼吸を整え、狭くなっていた注意を再び周囲へ広げていく。使ったものを補い、休息し、次の変化へ応じられる状態をつくり直していく。
反応することと、その反応を終えていくこと。その両方が、一つの調整に含まれています。
身体は、いつもまったく同じ状態へ戻るわけではありません。経験したことや現在の環境に合わせて、それまでとは少し異なる均衡を探すこともあります。
生命の安定とは、何も動かないことではありません。
揺らぎながら変化し、そのたびに、全体として生きられる状態を保ち続けることなのです。

終わりが身体へ伝わらないとき
第37章では、不安が、まだ起きていない未来へ身体を向けることを見ました。そして第38章では、身体が危険の近さや逃げ道、相手との関係に応じて、複数の行動を準備していることをたどりました。
この章で見てきた全身の調整は、そうした予測や行動の準備を支えています。
ただ、現代の負荷には、状況が終わったことを身体が確かめにくいものがあります。
仕事上の問題は、職場を離れても頭の中に残ります。人間関係への不安は、相手が目の前にいない時間にも続きます。生活費や介護、病気、将来の見通しに関わる問題は、今日一日を無事に終えただけでは解決しません。
人間の身体は、現実に目の前で起きていることだけに応じるわけではありません。
過去の出来事を思い出し、これから起こる可能性を想像し、その意味を考え続けます。実際の出来事が途切れていても、身体にとっては対応を続ける理由が残ることがあります。
反応が何度も繰り返され、十分に収まらないまま次の負荷が加われば、本来は適応を支える仕組みそのものが、身体へ大きな負担をもたらすようになります。
こうした反復や長期化によって、複数の身体システムに蓄積する負担は「アロスタティック負荷」と呼ばれています。
眠っても休まらない。小さな変化にも敏感になる。考えを切り替えにくくなり、何もしていないように見える時間にも疲れている。
その状態を見て、「自分は弱くなった」と感じることがあるかもしれません。
ただ、身体の側から見ると、別の理解もできます。
身体は弱いから反応しているのではなく、まだ対応を終えてよいと判断できていないのかもしれません。
ストレスの見え方は変えられるのか
では、身体で起きていることをどのように理解するかによって、その後の反応は変わるのでしょうか。
HYPOTHESIS
ストレスについての信念や意味づけを扱った研究では、「ストレスは自分を損なうだけのものだ」と捉える場合と、「負担を伴いながらも、課題へ対応するための働きを含んでいる」と捉える場合とで、行動や一部の生理反応に違いが生じる可能性が報告されています。
心理学者のケリー・マクゴニガルは、こうした研究を一般の読者へ紹介し、ストレスを悪者とだけ見なさない視点を広く伝えました。
ただし、ここには慎重さが必要です。
これらの研究から、ストレスは健康によい、考え方さえ変えれば負荷の影響はなくなる、と結論づけることはできません。
実験で確かめられているのは、特定の課題や条件のもとで、身体の高まりを「対処に使える反応」と捉え直すことが、認知や行動、心血管反応やホルモン反応の一部に影響する可能性です。
結果はどの状況でも同じになるとは限らず、効果の現れ方には個人差もあります。
強い負荷が続いているなら、休息を確保することや、環境を変えること、誰かの支援を受けることが必要です。捉え方を変えるだけで、過重労働や孤立、経済的な困難そのものが解決するわけではありません。
それでも、自分の身体で起きていることを「壊れてしまった証拠」とだけ見るのか、「何かへ対応し続けている身体の働き」と見るのかでは、その反応との付き合い方が変わることがあります。
理由が少し見えてくれば、その反応を理由に、自分を責め続けなくてもよくなるかもしれません。
身体が守ろうとしているもの
ストレス反応は、私たちをいつも快適にするために受け継がれてきた仕組みではありません。
環境が変わったとき、この先に必要になるものを見積もり、その場で使える力を集め、身体の状態を組み替え、次の瞬間まで生きられる可能性を保つ。そのために働いてきた仕組みです。
一時的に心拍が上がることも、注意が狭くなることも、エネルギーの配分が変わることも、それだけを見れば不快に感じられるかもしれません。
その一方で、身体全体から見れば、それらは変化を乗り越えるために選ばれた調整でもあります。
ただ、対応を求められる状態が何度も繰り返され、終わるきっかけを得られないとき、身を守るための仕組みは大きな負担にもなります。
だから必要なのは、ストレスを良いものだと言い聞かせることでも、反応する身体を力ずくで押さえ込むことでもありません。
いま身体が何へ備え、何を守ろうとし、なぜまだ休むことができずにいるのかを知ることです。
身体には、身体なりの理由があります。
いま続いている反応も、意味のない誤作動ではなく、生き延びるために受け継がれてきた仕組みの延長なのかもしれません。
その理由が見えてきたとき、私たちは自分の反応と戦うところから少し離れ、その身体とどのように生きていくのかを考え始めることができます。
ただ、その仕組みには、もう一つの難しさがあります。
危険が過ぎたあとも、身体は、なぜ反応を終えられないことがあるのでしょうか。
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