03 からだと心
危険が去っても、 身体が戻れないのはなぜか
危険が去ったあとも、眠れなさや集中の続かなさ、気分の重さが残ることがあります。アロスタティック負荷という視点から、その反応が睡眠・注意・記憶・免疫・気分へどう積み重なっていくのかをたどります。
会議が終わったはずなのに、心臓はまだ少し速く動いている。
家に帰り着いて、電気をつけて、椅子に座っても、頭の中では昼間のやり取りが何度も繰り返される。
危険はもう過ぎた。相手はもう目の前にいない。それなのに、身体のどこかが、まだ身構えたままでいる。
そういう時間を、多くの人が経験します。
第39章では、身体が変化する環境の中で安定を保とうとする働き、アロスタシスをたどりました。危険の兆しをとらえた段階で動ける準備を始め、状況が落ち着けば、その準備を静かに解いていく。それが本来の姿でした。
ただ、その解除がうまく進まないときがあります。
危険そのものは去っているのに、身体はなぜ、反応を終えられないことがあるのでしょうか。
「終わった」のに、まだ続いているように感じるとき
出来事が終わることと、身体の反応が終わることは、同じタイミングで起きるとは限りません。
目の前の危険が去れば、心拍も呼吸も、多くの場合は自然に落ち着いていきます。ただ、現代の負荷には、身体が「もう終わった」と確かめにくいものが少なくありません。
職場の問題は、職場を出たあとも頭の中に残ります。人との緊張は、相手がいなくなった時間にも続きます。将来の見通しに関わる不安は、今日という一日を無事に終えただけでは解消しません。
危険を知らせる合図が、外の世界からではなく、自分の記憶や想像の中から繰り返し送られてくる。
そのとき、身体はどうなっていくのでしょうか。
積み重なった負荷は、静かに重なっていく
一度の反応が起き、収まっていく。そのサイクルだけを見れば、身体はよく整った仕組みを持っています。
問題は、そのサイクルが十分に終わらないまま、次の負荷が重なるときに起こります。
神経内分泌学者のブルース・マキューアンは、こうした反復や長期化によって複数の身体システムへ蓄積していく負担を「アロスタティック負荷」と名づけました。血圧、血糖、コレステロール、炎症に関わる指標など、性質の異なる複数のシステムが、それぞれ少しずつ変化を積み重ねていくという考え方です。
一回ごとの反応は、状況に応じるための正当な働きです。ただ、それが繰り返され、十分な回復の時間を持たないまま次の負荷が加わると、本来は適応を支える仕組みそのものが、身体への負担へと変わっていきます。
この負担は、一か所にまとまって現れるわけではありません。
眠り、注意、記憶、免疫、気分。一見ばらばらに見えるこれらの場所へ、少しずつ形を変えながら現れていきます。

眠っているあいだも、見張りをやめられないことがある
眠りとストレス反応は、一方通行の関係ではありません。
睡眠の質が下がったり、眠る時間が十分に取れなかったりすると、ホルモンを介した調整に乱れが生じやすくなります。反対に、深く眠れている夜は、その調整を落ち着いた状態へ戻す助けになります。
普段、この調整を担うホルモンは一日のリズムを描きます。朝に高まり、夜へ向けて静かに下がっていく。ところが、負荷が続いている状態では、本来下がっているはずの夜の時間帯にも値が高いまま残ることがあります。
下がりきらないまま迎える夜は、入眠や睡眠の維持を妨げます。そして、眠りが十分に取れなかった翌日は、同じ調整がまた乱れやすくなる。
一晩の眠りが整わなかっただけで、この巡りは始まってしまうのです。
ただし、ここには慎重さも必要です。不眠が続いている人を対象にした研究では、就寝前や日中のホルモン値が一貫して高いとは限らないという結果も報告されています。眠れないことと、身体が高ぶっていることは、いつも同じ形で結びつくわけではありません。
眠れない夜が続くとき、そこにあるのは意志の弱さではなく、まだ静まりきっていない調整の途中なのかもしれません。
注意は、ひとつの場所に留まりにくくなる
眠りが十分に整わない状態は、注意を向け続ける力にも影響します。
ストレスを受けた直後は、注意や短期的な記憶に一時的な乱れが生じることが、実験でも確かめられています。ある研究では、緊張を伴う課題のあと、30分が経っても注意や言葉の想起、作業記憶の働きに影響が残っていました。
直感的には、危険を強く意識するほど、脅威に関わるものへ注意が引きつけられやすくなるように思えます。実際、平常時にはそうした傾向が確認されています。
ただ、急なストレスがかかった状態そのものでは、この傾向がむしろ弱まったり、消えたりするという結果も報告されています。長く続く負荷を受けた動物の実験でも、警戒に関わる行動が単純に強まるとは限らないことが示されています。
注意は、危険が強まるほど一方向へ研ぎ澄まされていく、というほど単純な仕組みではないようです。
何かに集中しようとしても、思考がすぐにそれてしまう。そうした状態の裏側には、限られた注意という資源を、目の前の作業と、まだ片づいていない負荷とのあいだで配分し続けている働きがあるのかもしれません。
覚えていることも、忘れていることも、同じ反応の一部
脳の中でも、海馬という部位は、ホルモンを受け取る仕組みを特に多く持っています。
この部位は、日々の出来事を意識的に思い出せる記憶に関わるだけでなく、ホルモンを介した信号を受け取り、反応を終わらせる働きの一部も担っています。負荷が長く続くと、動物を用いた研究では、この部位や前頭前野で、神経細胞の枝ぶりが萎縮したり、つながりが変化したりすることが確認されています。
ここで注意したいのは、「ホルモンが増えると記憶が悪くなる」という単純な図式では説明がつかない、ということです。
人を対象にした実験では、高い量のホルモンを投与すると、言葉として意識的に思い出す記憶は選択的に妨げられる一方、そうではない種類の記憶には影響が出ないことがわかっています。さらに、運動や新しい環境での刺激も同じホルモンを大きく上昇させますが、こちらはむしろ記憶や神経の働きを高める方向に作用します。
同じホルモンが、状況によって記憶を助けることもあれば、妨げることもある。
「あのとき何を話したか思い出せない」という経験も、「あの場面だけは鮮明に残っている」という経験も、同じ一つの仕組みが状況に応じて異なる形で現れた結果なのかもしれません。
見えないところで、身体を守る力がすり減っていく
負荷が続いていることは、目に見えにくい場所にも影響します。
認知症の家族を介護し続けていた人たちを対象にした研究では、同じ大きさの傷であっても、治るまでにかかる日数が、介護をしていない人たちより長くなることが確かめられました。負荷が続く生活の中では、身体を守り、修復する働きそのものが、静かに後回しにされていくということです。
同じ研究グループは、長期にわたる介護のストレスが、加齢に伴って炎症に関わる物質を高めるスピードを早めることや、ワクチンへの反応が弱まること、体内に潜んでいたウイルスが再び活動を始めやすくなることも報告しています。
ただ、免疫の働きが一律に弱まるわけではありません。
EVIDENCE
数十年分の研究をまとめた分析では、数分単位の短い負荷は、むしろ免疫の一部の働きを高める方向に動くことが示されています。試験のような数十分から数時間の負荷は、一部の免疫反応を一時的に抑える一方で、別の働きは保たれていました。これに対して、慢性的に続く負荷では、複数の免疫の働きがまとめて抑えられる傾向が確認されています。
短い負荷は、身を守るための一時的な切り替えとして働く。ところが、その切り替えが終わらないまま長く続くと、守るための力そのものがすり減っていく。
風邪をひきやすくなった、傷の治りが遅い気がする。そうした感覚は、気のせいではなく、続いている負荷が形を変えて現れたものである場合があります。

気分の重さも、身体の反応の続きかもしれない
眠り、注意、記憶、免疫。ここまで見てきた変化は、気分にもつながっていきます。
負荷が続く状態では、ホルモンを介した調整と、免疫に関わる働きが、互いに影響し合うようになります。炎症に関わる物質の血中濃度が高い人ほど、気分の重さを訴える度合いが強いという関連は、複数の研究で繰り返し確認されています。
ただし、ここは特に慎重に扱う必要があります。
OPEN QUESTION
これらの研究の多くは、ある時点での状態を比べたものであり、炎症が気分の重さを引き起こしていると証明したものではありません。関連が見られるという段階と、原因と結果が確定したという段階のあいだには、まだ埋まっていない距離があります。
それでも、気分の重さを、意志の弱さや性格の問題だけに還元してしまうと、見えなくなるものがあります。
眠れない夜が続き、注意が定まらず、身体を守る力がすり減っている。そうした状態の延長線上に、気分の重さが現れていたとしても、不思議ではありません。
消耗ではなく、まだ終えられずにいる身体
眠りにくさ、集中の続かなさ、覚えていられなさ、風邪をひきやすいこと、気分の重さ。
これらは、別々の弱さとして語られることがあります。
ただ、ここまでたどってきたように、その根には共通する働きがあるようです。危険が去ったあとも、身体のどこかが、まだその出来事を終わっていないものとして扱い続けている。そのひとつの状態が、いくつもの場所へ形を変えて現れているのかもしれません。
この理解は、負荷を我慢すればよい、という話ではありません。
身体、経験、環境、そのときどきの状況が幾重にも重なって、今の反応がつくられています。過去にこうだったから今も必ずこうなる、という一本道の話でもありません。
ただ、眠れない自分や、集中できない自分、忘れっぽい自分を、性格の欠陥として責める前に、まだ終えられずにいる働きとして見ることはできます。
その働きは、これから先も、ずっと同じ形で続くとは限りません。
では、一度終わったはずの出来事が、なぜ今の反応にまで影響を残すのでしょうか。
参考文献
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Annals of the New York Academy of Sciences. 2004;1032:1–7.
PubMed -
American Psychological Association.
Stress effects on the body
(閲覧日:2026年7月25日) -
Segerstrom SC, Miller GE. Psychological stress and the human immune system: a meta-analytic study of 30 years of inquiry.
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Chronic stress, neuroinflammation, and depression: an overview of pathophysiological mechanisms and emerging anti-inflammatories.
PMC -
HPA axis activity in patients with chronic insomnia: a systematic review and meta-analysis of case–control studies.
ScienceDirect