03 からだと心
記憶は、 なぜ現在の反応を変えるのか
もう克服したはずなのに、同じ場所や状況でまた同じ反応が出ることがあります。学習・再固定化・文脈依存という視点から、過去の記憶がなぜ今も現在の反応を変え続けるのかをたどります。
ずいぶん前に苦手になった何かが、いまはもう平気なはずなのに、ふとした瞬間にまた身がすくむことがある。
克服したと思っていた。慣れたと思っていた。それなのに、同じ場所に立ったり、同じ匂いをかいだりした瞬間、身体は昔と同じ反応を返してくる。
その一方で、当時のことをほとんど覚えていないはずの出来事が、なぜか今も特定の状況で顔を出すこともある。
危険が去ったあとも身体が完全には戻れないことを、前章までにたどってきました。では、その「戻れなさ」を形づくっている過去の経験は、いったいどこにどうやって残り、なぜ今の反応にまで影響を及ぼし続けるのでしょうか。
出来事と反応は、どうやって結びつくのか
何でもない音や場所、匂いが、特定の出来事と結びついて、それだけで身がまえてしまうようになる。
これは、もともと何の意味も持たなかった刺激が、危険や苦痛を伴う出来事と繰り返し重なることで、その刺激だけで防御の反応を引き起こすようになる仕組みによって起こります。動物を使った研究では、こうした結びつきができるとき、扁桃体という部位のシナプスが変化していくことが確かめられています。
この学習は、驚くほど早く成立します。一度か二度、重なっただけで十分な場合もあります。そして、驚くほど長く持続します。数日後だけでなく、数年後に同じ刺激へ触れても、当時とよく似た反応が引き出されることがあります。
ここで大切なのは、この結びつきが弱さの証拠ではないということです。
危険を予測し、次に同じことが起きたときに備える。これは、生き延びるために受け継がれてきた学習のかたちです。ただ、その学習があまりに正確で長持ちするために、危険がとっくに去った現在でも、同じ刺激に出会うたびに古い反応が呼び起こされてしまうのです。
思い出すたびに、記憶はもう一度書き換わる
長いあいだ、記憶は一度しっかりと固まってしまえば、あとは変わらないものだと考えられてきました。
EVIDENCE
この理解を大きく揺るがしたのが、2000年に発表されたカリム・ネイダーらの研究です。すでに定着した恐怖の記憶であっても、思い出すという行為によって再び活性化された瞬間、記憶は一時的に不安定な状態へ戻ることが示されました。そして、その不安定な状態から、もう一度安定した記憶へ作り直される過程を経ます。この過程は「再固定化」と呼ばれています。
思い出すことは、棚から古い写真を取り出して眺め、また元の場所へ戻すような、変化のない行為ではありません。
むしろ、取り出した瞬間に写真の表面がやわらかくなり、そのときの状況によって、細部が少しずつ描き直されてから、もう一度棚へしまわれるようなものに近いのです。
この不安定な時間は長くは続きません。けれど、その短い時間のあいだに何が起きるかによって、記憶は同じ強さのまま固まり直すこともあれば、少しやわらいだ形で固まり直すこともあります。
過去の出来事は、一度きりの刻印として身体に固定されているのではありません。思い出されるたびに、そのつど作り直される、生きたプロセスの中にあるのです。
「もう大丈夫」は、消すことではなく、重ねること
ある刺激が、もう危険と結びついていないと繰り返し経験すること。これは、恐怖を和らげる代表的な方法として知られています。
ただ、ここで長年の研究が明らかにしてきたことがあります。この和らぎは、最初にできた危険の記憶を消すことによって起きているのではない、ということです。
複数の系統的なレビューが一致して示しているのは、危険と結びついた古い記憶はそのまま残り続け、その隣に「この刺激には、もう危険がない」という新しい記憶が、独立した形でつくられるという理解です。
古い記憶が上書きされて消えるのではなく、新しい記憶が古い記憶の上に重なっていく。
心理学者のマーク・ボウトンは、この状態を、ひとつの言葉が二つの意味を持つようになることにたとえました。ある言葉が、かつては悪い意味だけを持っていたのに、今では別の状況で違う意味も持つようになる。そのとき、その言葉を実際にどちらの意味で受け取るかは、今どんな場面にいるかによって変わってきます。
「もう平気になった」という感覚は、危険の記憶を消し去った結果ではありません。危険の記憶の隣に、安全の記憶を新しく育てた結果なのです。
どちらの記憶がその瞬間に選ばれるかは、今どこにいて、何に囲まれているかに大きく左右されます。

同じ出来事でも、場所が変われば戻ってくる
安全の記憶が、危険の記憶と同じくらい強く、どんな場所でも同じように働いてくれるなら、話は単純です。
ただ、研究が示しているのは、その逆に近い実情です。安全の記憶は、それが作られた場所や状況と強く結びついたまま存在する傾向があります。
相談室で恐怖と向き合い、落ち着いて過ごせるようになったとしても、実際に苦手だったもとの場所に戻ると、また同じ反応が戻ってくることがあります。この現象は「再燃」と呼ばれ、曝露を用いた治療のあとの再発を説明する主な理由のひとつとして研究されてきました。
EVIDENCE
実際の治療成績を追った研究では、恐怖症への曝露療法を受けたあと、半年から数年の追跡で再発が見られた割合は30〜50%にのぼると報告されています。落ち着けるようになったはずの反応が、場所を変えるだけで戻ってくることは、決してめずらしいことではないのです。
この文脈への依存は、恐怖の記憶だけに起きることではありません。
1975年に行われた古典的な実験では、潜水士が単語のリストを陸上と水中のどちらかで覚え、その後、同じ場所か異なる場所で思い出すよう求められました。結果は、覚えた場所と同じ場所で思い出そうとしたときの方が、はっきりと成績が良いというものでした。
記憶は、内容だけを切り離して保存されているのではありません。それが刻まれたときの周囲の状況ごと、ひとつのまとまりとして残されているのです。
だからこそ、あの場所に戻ると、忘れていたはずの感覚まで一緒によみがえってくることがあります。
感情が強く動いた出来事ほど、なぜ鮮明に残るのか
楽しかった出来事より、怖かった出来事や恥ずかしかった出来事の方が、細部まではっきりと覚えていることがあります。
これは、記憶が感情の大きさに応じて、扱いを変えているためだと考えられています。強く心が動いた出来事が起きたとき、身体はホルモンを介して、その出来事を記憶として固定する働きを強めます。第39章と第40章でたどった、危険に応じて全身を組み替える仕組みが、ここでも関わっています。
この仕組みは、本来、私たちを助けるためのものです。二度と同じ危険に不意打ちされないよう、重要な出来事ほど強く記憶に刻んでおく。
ただ、その働きが強すぎると、思い出したくない場面ほど鮮明に残り、繰り返し呼び起こされやすくなるという裏側も持っています。
忘れられないことは、弱さでも、こだわりすぎでもありません。危険から身を守るために発達してきた仕組みが、今もそのまま働いているだけなのです。

古い記憶と新しい記憶は、同時に存在している
ここまでたどってきたことを、あらためて振り返ってみます。
危険と結びついた記憶は、扁桃体を中心とした学習によってつくられ、驚くほど長く保たれます。その記憶は、思い出されるたびに一時的に不安定になり、そのつど作り直されます。そして、「もう危険はない」と学んだとしても、それは古い記憶を消すのではなく、新しい記憶をその隣に育てる過程です。
その新しい記憶は、場所や状況と強く結びついているため、環境が変わると顔を出しにくくなり、古い記憶の方が前面に出てくることがあります。感情が強く動いた出来事ほど、その古い記憶は鮮明に刻まれています。
「まだ克服できていない」「あれだけ向き合ったのに、また同じ反応が出た」。そう感じるとき、そこにあるのは、努力が足りなかった証拠ではありません。
古い記憶と新しい記憶が、今も同じ場所に共存していて、そのときの状況によって、どちらが先に顔を出すかが変わっているだけなのです。
過去の経験は、消えることも、完全に上書きされることもなく、今の反応の中に静かに織り込まれ続けています。
では、この過去や、まだ起きていない未来を考える力は、なぜ同じ考えを何度も同じ場所へ引き戻してしまうのでしょうか。
参考文献
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