05 問いと哲学

私たちは、 自由に選んでいると言えるのか

脳は意識より先に動いている——そんな実験結果は、自由意志を否定するのでしょうか。リベット実験とその後の研究、そして哲学の視点から、選択と責任のありかを考えます。

今日、何を着るか。誰と話すか。仕事を続けるか、辞めるか。私たちは毎日、無数の選択をしています。そのたびに、「自分で決めた」という感覚があります。

でも、その選択の手前には、いつも何かがあります。育った環境、これまでの経験、繰り返してきた習慣、周りの人たちの目。前章で見てきたように、正しさの基準は一つに決まりません。それでも私たちは、何かを選び、その結果に責任を持たされます。だとすれば、身体と経験と社会に囲まれた私たちは、本当に「自由に」選んでいると言えるのでしょうか。

この問いに、科学は一つの実験で答えようとしたことがあります。

1980年代、神経科学者のベンジャミン・リベットは、被験者に「好きなタイミングで手首を動かしてください」と頼み、その間の脳波を記録しました。すると、本人が「動かそう」と意識する約0.35秒前から、脳にはすでに「準備電位」と呼ばれる特有の活動が始まっていました。

EVIDENCE

意識して決めたと感じる前に、脳はすでに動き出しています。この結果は、意識して決めたと感じる前から脳がすでに動いていることを示す発見として、自由意志は幻想であり、後から自分の意志だと思い込んでいるだけではないか、という解釈で広く知られるようになりました。

ただ、この解釈には長年、異論も続いてきました。神経科学者のアーロン・シュルガーらは、準備電位は「決定の合図」ではなく、脳の中にもとから存在するランダムな揺らぎが、たまたま閾値を超えただけかもしれないという対抗モデルを示しています。この解釈が正しければ、準備電位は「無意識の決定」を意味しません。

OPEN QUESTION

準備電位が何を意味しているのかは、40年以上議論されながら、今も決着していません。リベットの実験は、自由意志を「否定する証拠」にはなりませんが、「証明する証拠」にもなりません。

伸ばされた手より一瞬早く動き出した、淡い光の軌跡

2008年には、別の研究チームが、この問いをさらに先へ進めました。ズーン・ブラス・ハインツェ・ヘインズらは、fMRIを使って脳の活動を調べ、本人がボタンを押す側を意識する最大10秒前から、前頭前野と頭頂葉の活動パターンに、どちらを選ぶかの手がかりが現れていることを見つけています。

一見、リベットの結果をさらに強く裏づけるようにも見えます。ただ、この予測の精度は、偶然(50%)を少し上回る60%程度にとどまります。脳の活動が選択の傾向に先行して関わっていることは確かだとしても、それは「結果がすでに決まっていた」ことの証明ではありません。この研究は2011年、より精度の高い装置で追試され、同様の傾向が再現されています。

こうした実験結果は、選択の背後に、意識が気づくより先に働いている過程があることを示しています。それは、決定論――私たちの行動もまた、それ以前の出来事や脳の状態によって形づくられているという考え方――を支持する材料の一つになります。

ただ、ここで立ち止まって考えたいことがあります。「脳が先に動いている」ということと、「その人に選択の自由や責任がない」ということは、本当に同じ意味なのでしょうか。

哲学の世界では、この二つを同じだとは考えない立場があります。決定論が正しくても、人には選択と責任が成り立つとする考え方です。この立場では、大事なのは「その行動が、その人自身の理由や価値観、人格から出てきたものかどうか」であって、「その理由や価値観が、それより前の出来事によって形づくられたかどうか」ではないとされます。脳が先に動いていること自体は、選んでいるのが「その人」であることを否定しない、という見方です。

一方で、これに納得しない立場もあります。理由も価値観も、結局は自分で選んだわけではない条件の産物なら、そこに本当の意味での自由はないはずだ、という考え方です。この対立に、科学的な決着はついていません。どちらも一つの哲学的な立場であり、まだ残る問いです。

この違いを考えるとき、手がかりになるのが「強制されているかどうか」という視点です。銃を突きつけられて金を渡すことと、自分の意志で誰かに何かを贈ることは、どちらも「その人の身体が動いた」という点では同じでも、私たちはこの二つを同じ選択だとは扱いません。前者には、他に選べる道がほとんどありませんでした。後者には、他の道もありながら、その人がそれを選んだという経緯があります。

狭く収束する暗い線に囲まれた道と、開かれた光の道が並んで示される構図

自由や責任は、「何にも影響されていないこと」を意味するわけではないのかもしれません。むしろ、その人自身の理由や価値観が、選択の中にどれだけ働く余地があったか、という度合いの問題として考えることができます。

この視点は、現代を生きる私たちの、自分自身への向き合い方にも関わってきます。「意志の力さえあれば何でも選べるはずだ」と考えて自分を責めすぎることと、「どうせ脳が決めていることだから、何をしても同じだ」と考えて投げ出してしまうこと。この二つは正反対に見えて、どちらも極端です。

身体や経験や社会条件に影響されながらも、その中で自分の理由や価値観に沿った一歩を選び直せる余地は残っています。それは、何にも縛られない絶対の自由ではないかもしれません。それでも、選び直すという行為そのものが、無意味になるわけではありません。

では、そうやって選択を重ねている「私」とは、いったい何なのでしょうか。身体は変わり、記憶は薄れ、性格さえ時とともに移り変わっていきます。それでも私たちは、なぜ「同じ自分」だと感じ続けられるのでしょうか。

参考資料

  1. Libet, B.
    “Unconscious cerebral initiative and the role of conscious will in voluntary action.”
    Behavioral and Brain Sciences, 1985.
    論文を確認する
  2. Schurger, A., Sitt, J. D., & Dehaene, S.
    “An accumulator model for spontaneous neural activity prior to self-initiated movement.”
    Proceedings of the National Academy of Sciences, 2012.
    論文を確認する
  3. Soon, C. S., Brass, M., Heinze, H. J., & Haynes, J. D.
    “Unconscious determinants of free decisions in the human brain.”
    Nature Neuroscience, 2008.
    論文を確認する
  4. Bode, S., He, A. H., Soon, C. S., Trampel, R., Turner, R., & Haynes, J. D.
    “Tracking the Unconscious Generation of Free Decisions Using Ultra-High Field fMRI.”
    PLOS ONE, 2011.
    論文を確認する
  5. McKenna, M., & Coates, D. J.
    “Compatibilism.”
    Stanford Encyclopedia of Philosophy.
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