04 群れと社会

なぜ、 人はルール違反を罰するのか

自分が直接損をしていなくても、なぜ人は非協力や不公平を罰しようとするのか。フェアとゲヒターの公共財ゲーム実験、第三者処罰の研究、そして「出る杭は打たれる」にも通じる反社会的な罰の存在から、罰という行動の複雑さを見ていきます。

電車の優先席で、席を譲るべきか迷っているふりをして座り続ける人を見たとき。行列に、悪びれもせず割り込む人を見たとき。自分には何の実害もないのに、胸の奥で小さな怒りが立ち上がります。声をかけるわけでもないのに、視線だけがその人を追ってしまう。

前章では、規範だと分かっているものに、なぜ人はあえて同じ行動を選んでしまうのかを見てきました。この章で見ていくのは、その逆側の問いです。自分が直接損をしていないのに、なぜ人は非協力や不公平を制裁しようとするのでしょうか。

罰の選択肢があると、協力は保たれる

経済学者エルンスト・フェアとシモン・ゲヒターは、公共財ゲームという実験手法を使って、この問いに取り組みました。参加者は少額のお金を渡され、そのお金を共同の資金に出資するか、自分の手元に残すかを選べます。出資された資金は増えて全員に分配されますが、正直に言えば、誰も出資せず、他人の出資にただ乗りするのが個人にとって一番得になる仕組みになっています。

実験では、資金の使い方を見た後、参加者同士がお互いに、自分のコストを払ってでも相手のお金を減らせる仕組みが用意されました。すると、この「罰の選択肢」があるグループとないグループとで、協力の続き方が大きく変わりました。罰の選択肢がないグループでは、回を重ねるごとに出資額がどんどん減っていったのに対し、罰の選択肢があるグループでは、高い協力水準が保たれ続けたのです。

罰を与える側は、それによって金銭的な得をするわけではありません。それでも多くの参加者が、コストを払ってでもズルをした相手を罰していました。研究チームは、この行動の背後に、非協力的な相手への負の感情があると分析しています。

自分に関係のない場でも、人は罰する

ここまでの実験は、罰する側自身が、相手の非協力によって損をしている状況でした。では、自分がまったく関係のない立場でも、人は同じように罰するのでしょうか。

同じ研究チームは、続く実験で、この問いに答える設計を用意しました。2人の間で、一方が受け取ったお金をどう分けるかを決め、もう一方がそれを受け取るだけという場面に、まったく利害関係のない第三者を立ち会わせます。この第三者は、分配された結果を見た後、自分のコストを払ってでも、不公平な分け方をした人を罰することができます。

結果、分配が不公平であればあるほど、第三者による罰は強くなりました。まったく自分の懐が痛まないにもかかわらず、第三者のおよそ3分の2が、自分のコストを払ってまで不公平な相手を罰したのです。

EVIDENCE

この「当事者ではない人が罰する」という傾向は、協力のルールを破った場面でも同じように確認されています。行列への割り込みを見て腹が立つあの感覚は、実験室の中でも繰り返し観察されてきた、人間に広く見られる反応だということになります。

割り込みを見た、あの数秒間

もう一度、行列の場面に戻ってみます。誰かが列に割り込んだ瞬間、周りにいる人たちの間に、小さな空気の揺れが起きます。ちらりと視線を送る人。小さくため息をつく人。隣の人と目を合わせて、無言のうちに「見た?」と確認し合う人。

誰も大声で咎めたりはしません。それでも、その場にいた全員の中で、何かが動いています。見て見ぬふりをする人さえ、実は何も感じていないわけではなく、視線を逸らすという形で、その場の空気に小さな一票を投じているのかもしれません。この、声には出さない無数の小さな反応の積み重ねが、結果として「割り込みは良くないことだ」という空気を、その場に保ち続けています。

罰の裏側にあるもの

ただ、この「怒りが罰を生む」という説明には、異論もあります。ある研究チームは、フェアとゲヒターの実験データを別の角度から分析し直し、罰する人たちの行動が、非協力そのものへの怒りというより、収入の格差を均そうとする平等志向によって説明できる部分が大きいと主張しました。ズルをした相手を罰しているように見えて、実は「自分より多く得ている人」を罰する傾向のほうが強く出ていた、という指摘です。

OPEN QUESTION

罰の動機が、非協力への怒りなのか、格差そのものへの不快感なのか。この論争には、まだ決着がついていません。どちらの側面も関わっている可能性が高く、罰という行動を一つの感情だけに単純化できないことを、この論争そのものが物語っています。

さらに、罰という営みには、もう一つ厄介な側面があります。16か国で行われた比較実験では、多くの社会でルール違反者への罰が確認された一方、一部の社会では、むしろ協力的で正直な人のほうが罰の対象になる「反社会的な罰」が広く見られることが分かりました。目立って良いことをした人が、周りから引きずり下ろされるようにして罰せられる。このパターンが強い社会ほど、結果として全体の協力水準がかえって下がる傾向も示されています。

「出る杭は打たれる」という感覚は、この反社会的な罰と地続きにあるのかもしれません。罰という仕組みは、集団の秩序を守る側にも、秩序という名目で誰かを引きずり下ろす側にも、同じように使われうるのです。

罰する自分を、少しだけ見つめ直す

理不尽な行為を見たときに湧き上がる怒りは、身勝手さの証拠でも、余計なお節介でもありません。集団の中でルールを保とうとする、人間に広く見られる働きの一部です。ただ、その怒りが、時として本来の的から外れ、目立つ人や、自分と違う人へ向かってしまうこともあります。

自分の中の小さな怒りに気づいたとき、それが本当に守ろうとしているものは何でしょうか。ルールを守ることなのか、それとも、ただ誰かを引きずり下ろしたいという別の感情なのか。その違いに、ほんの少し立ち止まって目を向けてみることはできます。

こうして罰と協力が繰り返される群れの中で、人はやがて、同じ仕事を全員でこなすのではなく、それぞれ違う役割を担うようになっていきます。次の章では、その役割と分業が、集団に何をもたらしたのかへ近づいてみたいと思います。

参考文献

  1. Fehr E, Gächter S.
    Altruistic punishment in humans.
    Nature. 2002;415(6868):137-140.
  2. Fehr E, Fischbacher U.
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  3. Fowler JH, Johnson T, Smirnov O.
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    Nature. 2005;433:E1.
  4. Herrmann B, Thöni C, Gächter S.
    Antisocial punishment across societies.
    Science. 2008;319(5868):1362-1367.

本文では、複数の実験で繰り返し確認されている第三者処罰の傾向と、罰の動機(怒りか平等志向か)をめぐる現在も続く論争とを、同じ確度の事実として扱わないよう区別しています。