02 人類

人間は、 なぜ見えないものを語れるのか

人間は、目の前にない場所、過去、未来、約束について語れます。共同注意、類人猿の身振り、手話言語の形成をたどり、言葉が「いま、ここ」を越えて意味を共有する仕組みになった道筋を考えます。

約束は、目では見えません。

昨日の出来事も、明日の予定も、いま立っている場所にはありません。遠く離れた土地、そこにいない人の行動、まだ起きていない出来事も、目の前に置いて指さすことはできません。

それでも私たちは、「あの谷には水がある」「昨日、動物の群れを見た」「明日の朝に出発しよう」と語り合えます。

言葉は、見えているものへ名前をつけるだけの仕組みではありません。その場にないものを、ほかの人の心の中へ呼び出すことができます。

人間は、どのようにして、この力を手にしたのでしょう。

言葉より先に、同じものを見る

幼い子どもは、言葉を話せるようになる前から、ほかの人の視線や指さしを追い始めます。

大人が何かへ顔を向ける。指を伸ばす。子どももその先を見ようとする。やがて大人は子どもの反応を確かめ、二人の注意が同じ対象の上で重なります。

岩陰で大人の指さす小鳥へ幼い子どもが視線を向け、同じ対象へ注意を寄せている様子

こうして、自分と相手が同じものへ注意を向ける関わりは「共同注意」と呼ばれます。

生後9〜18か月の乳児を追跡した研究では、視線や指さしを追う力と、自分から相手の注意を引く力が成長とともに発達し、その一部は2歳頃の言語能力と関連していました。

ただし、共同注意ができれば、そのまま言葉が増えるわけではありません。親子が同じ対象を見ている場面でも、子ども自身がその対象へ注意を保てることが、その後の語彙と強く関係した研究もあります。

言葉の入口にあるのは、一つの能力ではありません。相手の視線を読み、対象へ注意を向け、その注意を保ちながら、声や表情や身振りを一つの出来事として受け取る時間です。

大人が小鳥を指して音を発したとき、子どもは音だけを聞いているのではありません。顔の向き、指先、小鳥の姿、その場の流れを重ねながら、その音が何を指しているのかを探していきます。

言葉より先に、まず「あなたも、これを見ている」という共有が生まれているのです。

伝えようとする力は、私たちだけのものではない

相手へ何かを伝えようとする力は、人間の言語とともに突然現れたわけではなさそうです。

人間以外の類人猿も、声、表情、姿勢、手の動きを使って相手へ働きかけます。ただし、それらを人間の言語と同じものだと考えることはできません。

2014年の実験では、言語訓練を受けた2頭のチンパンジーが、隠された食べ物を人間と一緒に探しました。チンパンジーは、人間が自分を見ているときに身振りを使い、相手が目的の場所へ近づくにつれて合図を変えました。うまく伝わらないときには、身振りを繰り返したり、別の合図を加えたりする様子も確認されています。

これは、限られた条件と個体から得られた結果です。チンパンジーが人間と同じ言語を持つことや、野生のすべての個体が同じ行動をすることを示してはいません。

それでも、相手の注意を確かめ、反応に応じて伝え方を変える力が、人間だけに完全に閉じたものではないことは分かります。

こうした柔軟なやり取りは、言語そのものではありません。ただ、言葉が生まれるために必要だった力の一部と、進化的につながっている可能性があります。

声がなくても、言語は育つ

言語の始まりを考えるとき、私たちは話し声を思い浮かべがちです。

しかし、意味を組み立てて共有するために、声は必須ではありません。手の形や動き、視線、顔の表情、身体の向きを使う手話言語にも、語彙と文法があります。過去や未来、そこにいない人、目に見えない考えについても語れます。

そのことを鮮やかに示したのが、ニカラグアで生まれた手話言語です。

1970年代後半から、共通の手話言語を持たなかったろうの子どもや若者が、同じ教育施設へ集まるようになりました。授業で手話言語が教えられたのではありません。互いに身振りを使ってやり取りする中から、共有される表現が育っていきました。

最初から、完成した言語が一度に現れたわけではありません。

2004年に報告された研究では、後からこの言語共同体へ加わった世代ほど、移動を伴う出来事を細かな要素へ分け、それらを一定の順序で組み合わせて表現していました。先に使われていた身振りを子どもたちが学び、繰り返し使い、次の世代へ渡す過程で、表現がより体系的になったのです。

ニカラグア手話言語の歴史を、そのまま先史時代の言語誕生へ当てはめることはできません。社会環境も、すでに存在していた文化も異なります。

ただ、この事例は、言語が一人の頭の中だけで完成するものではないことを示しています。合図が人と人のあいだを往復し、子どもたちに学び直されることで、個人の身振りを超えた仕組みへ変わっていくのです。

いま、ここにないものを呼び出す

目の前にある小鳥を指して、相手と同じものを見る。

そこから言葉は、少しずつ「いま、ここ」の外へ向かいます。

たとえば、湿った地面に動物の足跡が残っていたとします。その動物は、もうそこにはいません。それでも足跡を見た人は、身体の向きや手の動きを使い、動物がどちらから来て、どこへ去ったのかを仲間へ伝えられます。

湿った地面に残る動物の足跡を囲み、一人の身振りと視線から過去の出来事や動物の進んだ方向を共有している人々

これは、特定の遺跡から会話の内容が確認されたという話ではありません。声や身振りは化石にならないため、その場面を直接知ることはできません。

ただ、人間の言葉が、過去、未来、遠い場所、仮定の出来事について語れることは確かです。言語学では、現在の場所と時間から離れた対象を語る性質を「転位」と呼びます。

「昨日、群れが通った」「向こうの谷には水がある」「明日の朝に出発しよう」

言葉を使えば、その場にいなかった人も、出来事を心の中へ置くことができます。誰か一人の経験が、見ていなかった仲間の判断や行動へつながるようになります。

ただ、目の前にないものは、実物を指して意味を確かめられません。幼い子どもにとっても、そこにない対象を表す言葉を理解することは簡単ではありません。

2024年の親子の会話を調べた研究では、その場にない対象、特に子どもがよく知らないものについて話すとき、大人は対象の形や動きを思わせる身振りや声の使い方を多く加えていました。

見えないものを語るとき、人間は言葉だけに頼っているのではありません。手、顔、視線、声の調子を重ねながら、相手が心の中に同じものを思い描けるよう支えているのです。

意味は、人と人のあいだで育つ

最初の言語が、いつ、どの人類の間で、どのように始まったのかは分かっていません。

声は化石にならず、指さしも地層には残りません。喉や耳や脳の形を調べることはできても、そこでどのような意味が交わされていたのかを直接知ることはできないのです。

言語は声から始まったのか、身振りから始まったのかという議論も続いています。ただ、どちらか一方だけを起点と考える必要はないのかもしれません。

2025年の研究では、67頭のチンパンジーを調べ、脳の前頭部と側頭部を結ぶ神経経路の個人差が、意図的に使われる音声と、食べ物を求める手の身振りの双方に関連していました。

この結果だけで、人間の言語がどのように生まれたかは決められません。それでも、音声と身振りを別々の道と考えるより、複数の伝達手段が結びつきながら発達した可能性を考える根拠になります。

言葉が生まれる前には、相手を見ることがありました。同じ対象へ注意を向け、反応を確かめ、通じなければ伝え直すことがありました。

そのやり取りが繰り返される中で、合図の意味が人々のあいだに定着し、いま目の前にあるものだけでなく、遠い場所や過ぎた時間、まだ来ていない未来まで運べるようになったのでしょう。

言葉が大きく変えたのは、伝えられる情報の量だけではありません。

一人の経験を、その場にいなかった人へ渡し、まだ存在しない計画へ複数の人が一緒に向かえるようになったのです。

参考資料

  1. Mundy, P. et al.
    “Individual differences and the development of joint attention in infancy.”
    Child Development, 2007.
    論文を確認する
  2. Yu, C., Suanda, S. H. & Smith, L. B.
    “Infant sustained attention but not joint attention to objects at 9 months predicts vocabulary at 12 and 15 months.”
    Developmental Science, 2019.
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  3. Roberts, A. I. et al.
    “Chimpanzees modify intentional gestures to coordinate a search for hidden food.”
    Nature Communications, 2014.
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  4. Senghas, A., Kita, S. & Özyürek, A.
    “Children creating core properties of language: Evidence from an emerging sign language in Nicaragua.”
    Science, 2004.
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  5. Motamedi, Y., Murgiano, M. & Vigliocco, G.
    “Language development beyond the here-and-now: Iconicity and displacement in child-directed communication.”
    Child Development, 2024.
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  6. Hecht, E. E. et al.
    “Individual variation in the chimpanzee arcuate fasciculus predicts vocal and gestural communication.”
    Nature Communications, 2025.
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