07 いまを生きる

数字と比較は、 なぜ自分の価値に見えるのか

テストの点数、フォロワーの数、収入。数字は比べやすく、便利な物差しになる一方で、いつの間にか人全体の価値を映しているように感じられます。グッドハートの法則、マクナマラの誤謬、随伴的自己価値、収入と幸福をめぐる研究の変遷から、数字と自分の価値の関係をたどります。

テストの点数、フォロワーの数、投稿への反応。画面に表示された数字を見て、一喜一憂したことのない人は、あまりいないかもしれません。

第83章では、選んだ結果が時に数字や評価という形で私たちの前に返ってくることを見てきました。点数、順位、収入、反応数。これらは、ただの記録のはずです。それなのに、なぜか人全体の価値を映しているように感じられることがあります。テストの点数が悪かっただけなのに、自分そのものがダメな人間に思えてくる。投稿への反応が少なかっただけなのに、自分は誰にも必要とされていない気がしてくる。

数字には、比べやすいという性質があります。80点と60点なら、どちらが高いかは一目で分かります。フォロワーが1000人の投稿と10人の投稿なら、どちらがより多くの人に届いているかも、すぐに判断できます。この比べやすさが、いつの間にか「数字が大きいほど、その人自身も優れている」という感覚にすり替わっていくことがあります。

人としての価値は、本来、一つの数字に収まりきるものではありません。優しさ、粘り強さ、誰かを支える力、困難にどう向き合ってきたか。こうしたものの多くは、数値化しにくいものです。それなのに、目の前に分かりやすい数字が並んでいると、数値化しにくいものは後回しにされ、数字だけが評価のすべてであるかのように感じられてしまいます。この章では、数字と比較が、なぜ自分の価値そのものに見えてしまうのかをたどっていきます。

数字は、なぜ分かりやすいのか

そもそも、数字による測定には、はっきりとした利点があります。

言葉による評価は、人によって受け取り方が変わります。「よく頑張った」と言われても、それが本当にどれくらいの頑張りなのか、他の人と比べてどうなのかは分かりません。一方、点数や金額といった数字は、誰が見ても同じ意味を持ちます。80点は80点であり、時期や相手によって意味が変わることはありません。

数字があることで、去年の自分と今の自分を比べたり、多くの人の中から特定の基準を満たす人を選び出したりすることができます。試験の点数は、限られた時間で多くの人の学力を把握する手段として機能してきました。健康診断の数値は、自覚症状が出る前に体の変化に気づく手がかりになります。数字による測定がなければ、判断や比較にはもっと多くの時間と手間がかかっていたはずです。

企業が業績を管理するときも、自治体が政策の効果を検証するときも、何らかの数値目標がなければ、進んでいるのか後退しているのかを客観的に判断することは難しくなります。数字は、あいまいになりがちな状況を、誰もが確認できる共通の言葉に変換してくれる働きを持っています。

自分自身についても、同じことが言えます。「なんとなく頑張っている」という感覚だけでは、本当に前に進めているのか判断がつきません。体重や睡眠時間、勉強にかけた時間を記録すれば、感覚だけでは気づけなかった変化を、あとから確認できます。数字は、記憶のあいまいさを補い、努力の跡を残してくれる便利な記録装置でもあるのです。

問題は、数字そのものにあるのではありません。数字は、複雑な現実のごく一部を切り取った断面にすぎないという前提を忘れたときに、数字が現実そのものへとすり替わってしまうことにあります。

測ることが、目的にすり替わる瞬間

イギリスの経済学者チャールズ・グッドハートは1975年、金融政策に関する議論の中で、ある指摘を行いました。「ある統計的な指標が、統制の目的で利用されるようになると、その指標が本来持っていた規則性は崩れていく」というものです。この考え方は、のちに「グッドハートの法則」として広く知られるようになりました。簡潔に言い換えると、「ある指標が目標になった瞬間、それは良い指標ではなくなる」ということです。

心理学者ドナルド・キャンベルも、これと似た指摘を別の文脈から行っています。「量的な社会指標が、社会的な意思決定に使われれば使われるほど、その指標は不正な圧力にさらされやすくなり、本来監視しようとしていた社会的過程を歪めやすくなる」というものです。この指摘は「キャンベルの法則」と呼ばれています。

これらの法則が示しているのは、測定という行為そのものが、測られる側の行動を変えてしまうという現象です。コールセンターの職員が、対応件数だけで評価されるようになれば、一件あたりの対応を急いで切り上げるようになるかもしれません。学校のテストの点数だけが評価されるようになれば、点数につながる内容だけを教え、点数に表れない思考力や好奇心は後回しにされるかもしれません。指標そのものは悪くなくても、指標が目的化した瞬間に、本来測りたかったものからかけ離れていくのです。

この現象は、他人を評価する場面だけでなく、自分自身を評価する場面にも当てはまります。「今週は何回運動できたか」を記録し始めると、記録を途切れさせたくない一心で、本来の目的だった体調の改善よりも、回数を途切れさせないこと自体が目的になってしまうことがあります。数字を追いかけているうちに、なぜその数字を追いかけ始めたのかという、もともとの理由を見失ってしまうのです。

狭い光の枠に収まろうと身をよじる人物のシルエットの二重の輪郭線を通じて、指標に合わせて自分を歪めてしまう様子を象徴的に表現したイメージ

測れるものだけを見て、測れないものを見失う

数字への依存が行き着いた先を示す、よく知られた歴史的な例があります。

1960年代、アメリカの国防長官を務めたロバート・マクナマラは、ベトナム戦争の戦況を把握するために、数値化できる指標を重視しました。その代表が「敵の死体数」でした。死体数が増えれば、戦況は有利に進んでいるはずだと判断されました。

しかし、実際の戦況はその数字が示す通りには進みませんでした。士気や民心の動き、現地の複雑な政治状況といった、数値化しにくい要素は、判断の材料から次第に外れていきました。死体数という指標が上がり続けているという報告が続いた一方で、戦況は悪化の一途をたどり、最終的にアメリカは撤退することになります。数字の上では優勢に見えていたはずの戦況と、実際に起きていた現実とのあいだには、大きな隔たりがあったのです。

社会学者ダニエル・ヤンケロビッチは1971年、この経緯を振り返り、次のような四段階の過程を指摘しました。まず、測りやすいものだけを測る。次に、測りにくいものを軽視する。さらに、測りにくいものは重要ではないと思い込む。最後に、測りにくいものは存在しないと思い込んでしまう、という過程です。この現象は、のちに「マクナマラの誤謬」と呼ばれるようになりました。

これは、遠い戦争だけの話ではありません。職場の評価が売上や件数だけで決まれば、同僚を助ける時間や、丁寧な仕事は評価の対象から外れていきます。学業成績だけで自分の価値を測ろうとすれば、人への優しさや、粘り強さといった、点数に表れない部分が見えなくなっていきます。測れるものは、実際に存在するものの一部でしかありません。それなのに、測れる部分だけが、いつの間にか全体を代表するものとして扱われてしまうのです。

自分自身に対しても、同じことが起こります。一日の終わりに、達成できたタスクの数だけを数えて振り返ると、誰かの相談に乗った時間や、疲れた体を休ませた時間は、記録に残りません。数えられなかった時間は、まるで何もしていなかった時間であるかのように感じられ、実際には大切な意味を持っていたはずの時間が、評価の外側に追いやられてしまいます。

学術の世界でも、似た現象が指摘されています。研究者の評価は、論文が他の論文に引用された回数という数字で測られることが多くあります。この数字は、研究の影響力を推し量る一つの手がかりにはなりますが、地道な検証や、すぐには注目されない基礎的な研究の価値までは、うまく映し出せません。測りやすい数字が広まるほど、測りにくい価値のほうが、見えにくくなっていく傾向があるのです。

一つの数字に、自分の価値を賭けてしまう心理

なぜ人は、数字に自分の価値そのものを重ねてしまうのでしょうか。測定の便利さや、指標が歪んでいく仕組みを知っただけでは、まだ説明しきれない部分が残ります。数字が自分自身の内側にまで入り込んでくる背景には、もう一つ別の心理が関わっているようです。

心理学者ジェニファー・クロッカーらは2001年以降の研究で、人の自己評価が、特定の領域における結果に強く依存する現象を「随伴的自己価値」と呼んで研究してきました。人によって、自己評価を左右する領域は異なります。学業の成績に自己評価を強く依存させる人もいれば、外見、他者からの承認、競争での勝敗に依存させる人もいます。ある領域に自己評価を強く依存させている人は、その領域で良い結果が出ると自己評価が大きく上がり、悪い結果が出ると大きく下がるという、感情の振れ幅の大きさが確認されています。

EVIDENCE

投稿への反応数やフォロワー数は、この「他者からの承認」という領域と結びつきやすい指標です。反応の数は、他者からの承認を数値として可視化したものだからです。ふだんは意識していなくても、この領域に自己評価を強く依存させている人ほど、反応が少なかったときの落ち込みや、反応が多かったときの高揚が大きくなりやすいと考えられます。

かつては、他者からの承認は、表情や態度、言葉といった、はっきりと数値化されない形で伝わるものでした。今は、いいねの数、フォロワーの数、再生回数として、承認の総量がそのまま画面上の数字として表示されます。数値化されたことで、承認は比較しやすくなりましたが、同時に、自分の承認のされ方を、他人の数字と絶えず並べて確認できるようにもなりました。この比較のしやすさそのものが、負担を大きくしている側面もあります。

数字そのものが問題なのではなく、数字を、自分という存在の総合評価であるかのように扱ってしまうことが、負担を大きくしているのかもしれません。テストの点数は、その日その範囲でどれだけ解けたかを示すだけです。反応の数は、その投稿がどれだけの人の目に留まったかを示すだけです。どちらも、人としての価値そのものを測っているわけではありません。

収入は、幸せを測れるのか

数字と幸福の関係をめぐっては、経済学の分野でも大きな議論の変遷がありました。

収入は、点数や反応数と同じように、他人と比べやすい数字の代表格です。給料の額を見れば、自分がどれくらい稼いでいるかが一目で分かります。同僚や同世代の平均と比べることも簡単にできます。だからこそ、収入は「自分がどれだけうまくやれているか」を測る指標として、多くの人にとって特別な重みを持っています。

2010年、ノーベル賞受賞者のダニエル・カーネマンと経済学者アンガス・ディートンは、年収が上がるほど日々の感情的な幸福感も高まるものの、年収がおよそ7万5000ドルを超えるとその効果が頭打ちになる、という研究結果を発表しました。この「7万5000ドルの壁」という結論は、広く知られるようになりました。

上向きに伸びる光と途中で頭打ちになる光をまとった二つの半透明のシルエットが重なり、中心部分だけ輪郭のはっきりした光として浮かび上がる様子を通じて、対立する研究結果が統合されて実像に近づく過程を象徴的に表現したイメージ

ところが2021年、心理学者マシュー・キリングスワースは、より詳細な調査手法を用いた研究で、幸福感は7万5000ドルを超えても頭打ちにならず、むしろ収入とともに上昇し続けるという、正反対に近い結果を発表しました。

OPEN QUESTION

二つの研究が食い違ったまま放置されるのではなく、2023年、カーネマンとキリングスワースは、統計学者バーバラ・メラーズを交えて共同で再分析を行いました。意見の対立する研究者どうしがあえて手を組み、答え合わせをするこの手法は「敵対的共同研究」と呼ばれています。分析の結果、平均的には収入とともに幸福感は上がり続けるものの、もともと満たされにくさを抱えた一部の層では、ある収入を超えると幸福感の伸びが鈍くなる、という、両者の主張を統合した実像が見えてきました。単純に「お金で幸せは頭打ちになる」とも「お金があるほど幸せになる」とも言い切れない、複雑な実態があったのです。

一つの数字だけで、複雑な現実のすべてを説明しようとすると、こうした行き違いが起こります。収入という分かりやすい指標の裏には、満たされやすさの個人差という、数字だけでは見えない要素が隠れていました。「7万5000ドルの壁」という分かりやすい結論が独り歩きし、当時は多くの企業や個人の意思決定に影響を与えましたが、その後の研究によって、実際にはもっと複雑な実像があったことが示されたのです。

数字は道具であって、答えではない

ここまで見てきた内容を並べてみると、数字そのものが悪いわけではないことが分かります。数字は、比較や判断を助ける便利な道具です。ただ、道具はあくまで道具であり、それ自体が答えを与えてくれるわけではありません。数字による測定には、比較を容易にし、変化を記録に残すという確かな利点があります。それでも、数字がすり替わりやすい性質を持っていることは、忘れないほうがよさそうです。

測定という行為は、目的にすり替わりやすい性質を持っています。測れるものだけに注意が向けば、測れない大切なものが見えなくなっていきます。そして、自分の価値を一つの数字に賭けてしまえば、その数字が動くたびに、自分の存在そのものが揺さぶられているように感じてしまいます。収入と幸福の研究が示していたように、一つの分かりやすい数字の裏には、その数字だけでは説明しきれない複雑さが、たいてい隠れています。

テストの点数が悪かった日も、反応が少なかった投稿も、それは一つの断面を映しているにすぎません。その断面がどれだけ鮮明に見えても、あなたという存在の全体を映しているわけではないのです。数字を確認するときには、それが何を測り、何を測っていないのかを、少しだけ思い出してみる。それだけでも、数字との付き合い方は変わってくるかもしれません。

点数や収入、反応の数といった、他人と比べやすい数字だけに目を向けていると、比べようのない部分、たとえば今日誰かに親切にできたこと、疲れた体を大切に休ませられたことは、記録にも記憶にも残りにくくなります。測れる数字を追いかけることと、測れない部分にも目を向けることは、両立できるはずです。どちらか一方だけを選ぶ必要はありません。

数字を介した比較は、時に、自分と誰かを隔てる壁のようにも感じられます。多くの人とつながり、多くの数字に囲まれているはずなのに、なぜか一人でいるときよりも、心細さを感じることがあります。それはなぜなのでしょうか。

参考文献

  1. Goodhart CAE. Problems of Monetary Management: The U.K. Experience.
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