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『夜と霧』ヴィクトール・E・フランクル|苦しみの中で生きる意味について考えた本

『夜と霧』を、苦しみを美化せず、強制収容所で起きた人間の反応と、生きる意味を慎重に考える本として紹介します。精神の自由の受け取り方と、読む時期への注意にも触れています。

ヴィクトール・E・フランクル著『夜と霧』の本の写真

※この記事にはAmazonアソシエイトリンクを含みます。

苦しい出来事が起きたとき、「この経験にも意味がある」とすぐに考えられる人ばかりではありません。

意味など考えられず、ただ今日を終えることで精いっぱいになることがあります。何も感じられなくなったり、以前ならできたことができなくなったり、自分が弱くなったように思えたりすることもあります。

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』は、そのような苦しみを前向きな言葉で包み、乗り越える方法を教える本ではありません。

精神科医だったフランクルが、ナチスの強制収容所へ送られた自身の経験をもとに、極限状況で人間の心に何が起きたのかを記した本です。

現在広く読まれている池田香代子さん訳の新版は、原著の1977年改訂版に基づき、2002年にみすず書房から刊行されました。

本書に書かれている苦痛を、今の私たちの日常的な悩みと同じものとして扱うことはできません。

それでも、自由も安全も奪われた環境で、人間の心がどのように変化し、それでもなお何が残りうるのかを見つめた記録は、人間について簡単な結論を出さないための問いを残します。

強制収容所で起きたことを、心理学者として記録する

本書の原題は、『ある心理学者が強制収容所を体験する』という簡潔な意味を持っています。

日本語の『夜と霧』という題名から、詩的な物語を想像するかもしれません。しかし本書の中心にあるのは、ナチスの強制収容所における現実と、そこで起きた人間の反応です。

本書は、ホロコーストの全体像を年代順に説明する歴史書ではありません。

被収容者の一人であり、精神医学を学んだ観察者でもあったフランクルが、自身と周囲の人々に起きた変化を記しています。

新版の本文は、「第一段階 収容」「第二段階 収容所生活」「第三段階 収容所から解放されて」という三つの段階で構成されています。

最初の衝撃、収容所生活の中で広がるアパシー、そして解放されたあとにもすぐには現実へ戻れない心の状態までが、順に描かれます。

心が動かなくなることを、弱さと決めつけない

収容直後には、強い衝撃や混乱が起こります。

やがて収容所での生活が続くと、苦痛や死を目にしても、心が以前のようには反応しなくなる状態が描かれます。本書では、それをアパシーと呼んでいます。

感情が薄れ、周囲への反応が小さくなる姿だけを見れば、冷たくなったように感じるかもしれません。

けれど、耐えがたい出来事が繰り返される環境で、すべての苦痛をそのまま感じ続けることはできません。

心が動かなくなることも、極端な環境の中で自分を守るために起きた反応だったのかもしれません。

被収容者の心を、通常の生活における性格の良し悪しだけで評価することはできません。

感じられないこと、考えられないこと、動けないことを、ただ本人の弱さとして扱わない。この本から受け取れる大切な視点のひとつだと思います。

人間に残る自由を、万能な自由にしない

『夜と霧』では、外側のすべてを奪われた状況でも、人間には自分の態度を選ぶ余地が残ることがある、と語られます。

この言葉は、長く多くの人を支えてきました。

一方で、慎重に受け取る必要もあります。

収容所では、食料、睡眠、安全、家族とのつながり、身体の自由が奪われ、暴力、病気、選別、死が日常にありました。

その中で語られる精神の自由は、現実の制約が小さかったという意味ではありません。

誰もが同じように毅然としていられたわけでもなく、態度を選べなかった人に責任があったわけでもありません。

人間には選べる部分が残ることがある。

けれど、奪われたものや選べなかったことまで、本人の責任にはできない。

この二つを分けずに読むと、本書の言葉が、苦しんでいる人にさらに努力を求める言葉へ変わってしまいます。

生きる意味は、外から押しつける答えではない

本書では、生きる意味を問うことが重要なテーマになります。

けれど、それは、どのような苦しみにも必ずよい意味があるという話ではありません。

苦しめば成長できるという保証でも、意味を見つければ必ず生き残れるという説明でもありません。

強制収容所で亡くなった人に、意志や意味が足りなかったわけではありません。

生きる意味は、苦しんでいる人に対して、外側の人が「この経験には意味がある」と与えるものではないと思います。

本人がまだ意味を見つけられないときに、前向きな説明を急がせることもできません。

意味がわからないまま、今日を終える。

ただ眠り、食べ、誰かのそばにいる。

そのような時間を経たあとで、自分にとって何が大切だったのかが見えてくることもあります。

意味は、苦しみを正当化するための言葉ではありません。

苦しみの中でも、その人の人生が苦しみだけで終わるとは限らないと考えるための問いなのだと、私は受け取りました。

私がこの本から受け取ったこと

私が『夜と霧』を読んで残ったのは、「人生にはどんな意味があるのか」という大きな答えではありませんでした。

今、自分に何が求められているのかを考える視点でした。

先のことを考えられない日があります。

何のために頑張るのかわからず、遠い目標を示されるほど苦しくなることもあります。

そのようなときに、人生全体の意味を見つけようとすると、答えが出ない自分をさらに責めることがあります。

けれど、今日しなければならない小さなことなら、考えられる場合があります。

眠る。食べる。約束をひとつ断る。助けを求める。目の前にいる人の言葉を聞く。

人生の意味を大きな答えとして見つけられなくても、今日、自分に求められていることへ応答することはできます。

それは、つらい状態を一人で耐えるという意味ではありません。

必要な支援へつながることや、危険な場所から離れることも、自分の人生へ応答することの一部です。

解放されれば、すぐ元どおりになるわけではない

本書は、収容所から解放された瞬間を、単純な幸福の結末としては描いていません。

長く自由を奪われた人が、解放されたからといって、すぐに喜びや現実感を取り戻せるとは限りません。

苦しみから離れたあとにも、心や身体がその環境に取り残されたようになることがあります。

この記述は、つらい状況が終わったのに元気になれない人を、回復が遅いと責めないための視点にもつながります。

危険がなくなったあとも緊張が続く。

過去の出来事が突然よみがえる。

眠れない。感覚が麻痺したようになる。日常生活へ戻ることが難しい。

そのような反応を、気持ちの切り替えができないからだと片づけることはできません。

強い苦痛が続く場合は、本だけで対処しようとせず、医療機関や専門の相談先へつながってください。

苦しみを美化せず、人間の尊厳を考える

『夜と霧』は、苦しむことを勧める本ではありません。

本書に描かれた苦痛は、本来起きるべきではなかった政治的・制度的な暴力によって生み出されたものです。

そこに人間の尊厳が描かれているからといって、暴力や迫害が人を成長させるものへ変わるわけではありません。

人間には、過酷な状況でも自分の態度を選べることがある。

同時に、選ぶ力を奪う環境をつくった側の責任が消えることはない。

本書を、自分や他人へ我慢を強いる道具にしてはいけません。

耐え続けることだけが尊厳ではなく、逃げること、助けを求めること、声を上げることも、その人が自分を守るために選ぶ行為です。

苦しみを美化せず、それでも人間の尊厳について考える。

その両方を手放さずに読む必要がある本だと思います。

読む時期を、自分で選んでよい

『夜と霧』には、強制収容所での選別、飢え、暴力、病気、死についての記述が含まれます。

歴史的に重要な本であっても、いつでも無理なく読める本ではありません。

過去のつらい体験を思い出すとき、心身が大きく不安定なとき、死や暴力の記述が負担になるときは、途中で閉じてもかまいません。

すべてを一度に理解する必要も、感動しなければならない理由もありません。

読めないことは、人間の弱さでも、歴史への無関心でもありません。

少しずつ読む。解説を先に読む。信頼できる人と話しながら読む。今は読まない。

読む時期と距離を、自分で選んでよい本です。

『夜と霧』が渡してくれるのは、苦しみには必ず意味があるという簡単な答えではありません。

人間から多くのものを奪う環境の中で、それでも人間とは何なのかを問い続けた記録です。

その問いを、誰かを責めるためではなく、人間の尊厳を守るために受け取りたいと思います。