『進化心理学入門』ジョン・H・カートライト|不安や恐怖を「自分の弱さ」だけで考えないために読んだ本
『進化心理学入門』を通して、不安や恐怖を意志の弱さだけで考えず、人間が長い時間をかけて受け継いできた反応として見る視点を紹介します。進化的な説明の限界と、医療との線引きにも触れています。
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理由もないように思えるのに、身体が緊張することがあります。
まだ何も起きていないのに、悪い結果を何度も想像する。
小さな物音に驚き、相手の表情の変化へすぐに気づく。
危険ではないと頭でわかっていても、心拍が速くなり、落ち着かなくなる。
そんな反応が続くと、「気にしすぎる自分が悪い」「もっと強くならなければ」と、自分を責めたくなることがあります。
ジョン・H・カートライトの『進化心理学入門』は、人間の心や行動を、今この瞬間の性格や意思だけでなく、人類が長い時間をかけて生き残ってきた歴史から考える本です。
日本語版は鈴木光太郎さんと河野和明さんが訳し、「心理学エレメンタルズ」の一冊として、2005年に新曜社から刊行されました。
自然淘汰、性淘汰、恐怖と不安、心の病、脳の大きさ、知能などを扱いながら、人間の行動は進化論でどこまで説明できるのかを考えていきます。
この本を読んだからといって、不安が消えるわけではありません。
それでも、「なぜ私はこんな反応をするのだろう」という問いに、性格や努力不足とは別の角度から向き合えるようになります。
今の自分だけを見ても、理由がわからない反応がある
私たちは、自分の心を現在の出来事だけから説明しようとすることがあります。
失敗が怖いのは、自信がないから。
人の目が気になるのは、意志が弱いから。
先のことを考え続けるのは、考え方に問題があるから。
けれど、人間の心は、今日の環境に合わせて一からつくられたものではありません。
長い進化の過程で、生き残り、子孫を残してきた生物の仕組みを引き継いでいます。
本書の第1章では、自然淘汰と適応という、進化を考えるための基本的な枠組みが説明されます。
ある環境の中で、生存や繁殖に関係する特徴を持つ個体が、その特徴を次の世代へ残しやすくなる。そうした積み重ねによって、生物の特徴が変化していく過程が自然淘汰です。
ただし、進化によって残った仕組みは、すべての人を幸せにするためにつくられたものではありません。
完全で、間違いがなく、現在の生活にも必ず合っているという意味でもありません。
過去の環境で生き残るために役立った反応が、現在の環境では苦しさにつながることもあります。
恐怖や不安を、弱さとは別の角度から見る
本書の第5章は、「心の原型―適応反応としての恐怖と不安」と題されています。
危険を避けるうえで、恐怖は重要な働きを持ちます。
何かが近づいてくる。大きな音がする。相手の様子がいつもと違う。
そのとき、危険かどうかをゆっくり検討し終えるまで身体が何も反応しなければ、逃げる機会を失うかもしれません。
身体が頭で状況を整理するより先に反応することには、生き残るうえで意味があったと考えることができます。
不安も、まだ起きていない危険を予測し、備える働きとして考えられます。
食べ物がなくなるかもしれない。
仲間から離されるかもしれない。
見えないところに危険があるかもしれない。
不確かな状況で、悪い可能性を先に考える傾向は、何も備えないよりも役に立った場面があったのかもしれません。
この見方を知ると、恐怖や不安を、ただの弱さや失敗としてだけ見なくてもよくなります。
身体が自分を困らせようとしているのではなく、危険を避けようとして警報を鳴らしている可能性がある。
私には、そのように考え直すための視点になりました。
役に立つ反応が、いつでも心地よいとは限らない
危険に早く気づくことは、過去の環境では生存に役立ったかもしれません。
けれど、現在の生活では、その警報が頻繁に鳴り続けることがあります。
仕事の連絡。
人間関係の変化。
将来への不確実さ。
画面に次々と流れてくる出来事。
命の危険ではなくても、身体は何か重要な問題が起きているように反応することがあります。
反応が生き残りに関係してきた可能性があるからといって、苦しさを我慢する必要はありません。
不安で眠れない。
外出や仕事が難しくなる。
考えが止まらず、生活へ大きな影響が出る。
そのような状態まで、「人間に備わった反応だから仕方がない」と済ませることはできません。
進化的な理由を考えることと、現在の苦しさへ必要な支援を受けることは両立します。
進化は、個人の運命を決める説明ではない
進化心理学の説明は、ときに「人間は本能でこう行動する」「男女は生まれつきこう違う」といった、単純な決めつけに使われることがあります。
けれど、進化的な傾向が考えられることと、すべての人が同じ行動をすることは別です。
人の行動には、生まれ持った特徴だけでなく、成長の過程、学習、文化、周囲との関係、現在の環境、その人自身の経験が関わります。
また、ある傾向に進化的な背景があるとしても、その行動が正しい、望ましい、変えられないという意味にはなりません。
攻撃や競争に進化的な説明ができたとしても、攻撃してよい理由にはなりません。
誰かを排除する傾向が人間にあるとしても、排除を受け入れなければならないわけではありません。
進化は、現在の行動を正当化するための言葉ではなく、なぜそのような傾向が生じうるのかを考えるための視点です。
私がこの本から受け取ったこと
私がこの本を読んで残ったのは、自分を責める前に、反応の仕組みを考えてみるという視点でした。
人の目が気になる。
失敗を何度も想像する。
小さな変化へ強く反応する。
そのたびに、「また気にしすぎている」と自分を否定することはできます。
けれど、なぜその反応が起きるのかを考えると、見え方が少し変わります。
身体は危険を見落とさないようにしているのかもしれない。
仲間との関係が壊れないように、相手の変化を探しているのかもしれない。
先の問題へ備えようとして、悪い可能性を繰り返し考えているのかもしれない。
もちろん、実際に何が原因で反応しているのかは、一人ひとり異なります。
進化だけで、その人の不安や行動を説明することはできません。
それでも、反応には何かの理由があるかもしれないと考えることは、「こんな自分は駄目だ」という結論から少し離れる助けになります。
仕組みを知ることは、自分を決めつけることではありません。
今の環境で、その仕組みとどう付き合うかを考えるための出発点になります。
心の病を進化で説明することへの注意
本書の第6章では、心の病を進化から説明する試みが扱われています。
精神的不調に進化的な背景が考えられるという説明は、症状を本人の性格や意志の弱さだけに帰さないための視点になることがあります。
一方で、進化的な説明だけで、その人の状態を診断したり、必要な治療を決めたりすることはできません。
不安、抑うつ、不眠、強い緊張、生活上の困難には、身体的な要因、現在の環境、過去の経験、対人関係など、さまざまな要因が関係します。
「進化の結果だから正常」「昔は役に立ったから放置してよい」と考えるのは適切ではありません。
強い不安や落ち込みが続いている。
眠れない状態が続く。
仕事、学校、家事、外出などへ大きな影響が出ている。
自分だけでは抱えきれないと感じている。
そのような場合は、本だけで対処しようとせず、医療機関や専門の相談先へつながってください。
進化的な理由があることと、現在の苦しさを我慢し続けなければならないことは別です。
もっともらしい説明を、事実と決めない
進化心理学には、人間の行動を長い時間軸から考えられる魅力があります。
一方で、現在ある行動を見てから、「昔この行動が役に立ったから残ったのだろう」と説明すると、どのような行動にも、もっともらしい物語をつくれてしまう危険があります。
進化の過程を直接観察することはできないため、複数の仮説を比べ、予測を立て、異なる資料や研究方法から検証する必要があります。
一つの進化的説明を見つけたからといって、それが唯一の理由であるとは限りません。
とくに、性差、脳、知能、心の病については、単純な説明が人を固定的に分類する言葉へ変わることがあります。
本書は2005年に刊行された入門書です。その後も研究は進み、用語や議論も更新されています。
すべてを現在の確定的な答えとして受け取るのではなく、進化から人間を見る一つの入口として読む必要があります。
自分を責める前に、仕組みを知る
不安にならない人間になることは、簡単ではありません。
危険へ反応し、先のことを考え、人との関係を気にする仕組みを、私たちは持っています。
だからといって、苦しさをそのまま受け入れなければならないわけでもありません。
どのような場面で警報が鳴るのか。
眠れているか。
予定を詰めすぎていないか。
今、本当に危険があるのか。それとも、危険を予測する仕組みが強く働いているのか。
自分を責める前に、起きていることを少しずつ観察する。
必要なら環境を変え、人へ相談し、支援を受ける。
『進化心理学入門』は、人間の行動を進化だけで説明しきる本ではありません。
けれど、心の反応を「自分の弱さ」だけで考えないために、長い時間の中から人間を見る視点を渡してくれる本でした。